蛻変(ぜいへん)の記 ~変化を常態化する~

「チームビルディング」と出会い、自分のあり方と周りへの伝え方を変えることで、周り人が手伝ってくれるようになる。「チームビルディング」の考え方や日々の気付きについて発信しています。

苦手なものは誰かを使って克服する

=========================================== 2022年2月7日 蛻変の記373号 今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。 ========================================

 

仕事をしていて下のような人を苦手にしてる
・メールやチャットの文意が読み取りにくい
・書き言葉や話し言葉が攻撃的


自分のことを棚に上げてますが、やられるのは苦手。
この手の人を相手にするとき、
緊急性がはっきりしないものは放置することが多い。
期限が明記されていない場合、自分から確認することもしない。
当人から直接催促されたり、間を取り持つ人から連絡されたりしたら動き出す。

自分の逃げ場がなくなってからやり始める。

そのときは余計なことを考えずに行動できる。


始めからやればいいのでは?と思うものの体が動かない。
動かす気もないと言うのが正直なところ。


どうして体が動かないのか。
相手の言葉の裏にある意図や感情を勝手に想像してるから。
読み取りにくい文や高圧的な発言だと、言葉が足りないことが多い。
その場合、相手の言いたいことや背景を考えてしまう。

 

相手に聞けないのは「恐れ」を抱いているのだろう。

何か言われることへの恐れ。
これがなかなか手放せない。


手放せないとは思っているものの、
今すぐにと言われるとそこまでではない。
というのも、苦手な人との間に入ってくれる人がいるから。
その人と早めに接点を持ち、間接的に苦手な人の対応をする。
それを繰り返して、苦手な人への恐れを手放すのを目指す。
遠回りかもしれないけど、そんな段取りを踏んでいくのもええかな

 

「するな」系のメッセージを書く必要はありますか?

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2022年2月6日 蛻変の記372号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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全国の新規感染者数が10万人を超える。
そんな中で、娘のクラスが週明けから学級閉鎖される。

今の状況であれば、遅かれ早かれなるだろうと思っていた。
想定内といえど、ついに来たなという感じ。

学校からの案内には感染者に対して、不当な差別、偏見などの
人権侵害をしないように、との文言が入っていた。
わざわざ書かなくてもいいのではとも思える一文。
書かなかったら書かなかったで小学校が注意しなかった、
という批判を避けたいのかなとも思ってしまう。

確かに「言わなくても分かってくれるだろう」
とするのはコミュケーションミスにつながる。
誰が行動するのか、といった行動モレを防ぐための声がけは、
言うかどうか迷ったら、発信したほうが良い。

「XXするな」系のメッセージはなくてもいいのでは、と個人的に思う。
注意喚起したところで、やる人は関係なくやる。
気をつけている人からすれば、言われなくてもと思う。
いずれにせよ、プラスに働かないと思うんですよね。

一つ注意すると、別のことを注意しないといけなくなる。
そのうち注意書きであふれるようになる。
ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団でアンブリッジ校長がやったように。

学級閉鎖という圧の強いメッセージを出す。
それに「XXするな」という文言を加える。
強い言葉が並ぶと自分は上から目線に思うのかと、実感する。

経験や年齢を積み重ねてくると、
自分は依頼のつもりで発信していても、
命令と感じる人もでてくるだろう。
自分が家族や仕事相手に発信する内容を気をつけないと・・・

書くことへの再チャレンジ(半年ぶり5回目)

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2022年1月15日 蛻変の記371号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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2022年が始まったなと思ったら、1月は早くも折り返し。
新年を迎えると目標を立てる方もいらっしゃると思います。

私の場合はというと、新しいことを始めるのもありますが、
やり残したこと、やりきれていいないことに取り組む。
ここに焦点を当てています。

私にとって、中途半端に終っているのがこのブログであり、
そして文章を書くということ。
書いてはやめて、また書き始めるを繰り返し、
去年の7月からはまた休止していました。

これだけ書いては休むを繰り返していると、
文章を書くのが苦痛で書きたくなくなると思いきや、
書いてみたいという気持ちがくすぶっている。

火が消えないので、ドロドロとしたものが心の奥底にたまってくる。
ドロドロしたものが溜まってくると、自分の違和感が大きくなる。
やっていないことに対しての気持ち悪さ。
この気持ち悪さが年明けから強く感じる。

そもそもこのブログを書き始めたのはなんだっけ?
という当初の目的から振り返りをしました。
5年以上前に学んだチームビルディングの理解を深めるために
日々の気づきに関連して書いてみようと思ったのが、始めたキッカケでした。
いざ書き始めると、書くこと自体が目的になり自分が苦しくなっていく。

さらに職場で文章がわかりにくい、面白くないなど指摘されることもあり、
書くことへの気持ちの重りが増していた。
気づけば文章を書くのが苦手という意識が刷り込まれていた。

苦手意識の克服のために間を取りつつ書いてはいたが、
「しんどい」思いが残りつづける。
その重荷を下ろすと決めたのが去年の7月だった。
いつのまにか文章を書く目的が苦手意識の克服だった。

ゴールが苦手と思う自分でなくなることになっていた。
そんな自分はどうなっているのかが全く見えていなかった。
ゴールが見えていないのに苦しみながら行動する。
今、思い返してみるとアホなことをやっていた。

今回、また再開するにあたって、立てた目的は
「こんなふうに考えている人がいる」と文章を通じて感じてもらう
ということ。
さらには書くこと自体を楽しむ。
毎日とか毎週とか定期的に書くことにしばられて、苦痛を感じたら休む。

ええこと書かなあかん、字数がしっかりあるものにせなあかん、
という我執を手放していく。
そんなふうに書きたいときに書いていこうと思いますので、
お付き合いただけるとうれしいです。

休止のお知らせ その2

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2021年7月17日 蛻変の記370号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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前回、休止をご案内したこちらのブログ。

今後の発信はTwitterにシフトしていきます。

 

この一週間、ブログを立ち上げた目的や

何のためにアウトプットしているのかを見直しました。

大したものではないですが、

長文を書くのが苦しくなっていました。

 

そうしたこともあり、短い字数制限のある中でのアウトプットに取り組んでみたいと思います。

Twitterアカウントは@takao_katanoです。

良かったらフォローお願いします。

 

何度目かの休載

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2021年7月10日 蛻変の記369号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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前回、三日おきの更新ペースが良いかもと

書きながら一週間更新を止めてました。

理由をつければ色々出てきますが、

一番は気力不足。

 

行動の仕組みを気力に頼っているとガス欠する。

5月、6月とやりたいことを増やして取り組んでいました。

今取り組んでいること、将来的にやりたいこととブログを書く理由にズレが生まれる。

 

何のために書いていたんだっけ?がぼやけてくる。

やりたいことに費やせる時間は限られる。

限られた時間の中で自分を動かすための

WHYがぼやけると体が動かなくなる。

 

さらに7月に入ってから体調の波が激しいのも

気力を削られている。

書かないとと思って放置していると自分の認知能力が削られるため、

またまた休みます。

 

自分探しの旅ではないですが、

何のために書くのかを整理して出直そうと思います。

ブログの名前を変えるのか、書く場所を変えるか、書くのを止めるか。

いつ戻るか、どうするかすら決めていないですが、

再開の折はまたお付き合いください

 

 

枠のサイズを変えて自由度を上げる

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2021年7月2日 蛻変の記368号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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このブログの更新を三日ごとにするのが

自分のリズムになりつつあります。

これぐらいの頻度が自分にとって無理なく続くのかもしれません。

 

このペースは毎日続けるという目標だとアウト。

アウトプットする習慣を持つという目標なら問題ない。

 

毎日更新している人と比べたら、自分は大したことないと思ってしまうかもしれない。

アウトプットしようとしてできていない人からしたら、できていることになる。

どのような目的を持ってどんな目標にするかで捉え方は変わらますよね。

 

誰か比べることは意味がない。

比較対象という自分の中で枠ができると、

そこにこだわってしまうもの。

 

枠があると枠にとらわれることに最近実感したんですよね。

最近、子どもの漢字ノートに筆ペンで書く練習をしています。

一マスの中に補助線がひかれているため字が書きやすい。

マスがあるのと補助線があるため、

マスの中に書かないと!という気になる。

 

枠の中に収めようと書くのが練習と思ってやっていました。

書いていて自分の字に違和感があるんですよね。

下手なのは置いといて、

縮こまっているとかぎこちないとかそんな感覚。

 

ノートに書いているのは自分に言い聞かせたい言葉。

「なぜ、その言葉を書こうとおもったの?」という問いを受け、自分の違和感に気づく。

書こうとしている文字のイメージを小さい枠に押し込める。

自分自身も窮屈になっていた。

 

子どもの漢字ノートなので、一マスに一文字に書くものと自分で自分に制限をかけていた。

自分一人でやっているものなので、

「こうしちゃダメ」という人はいない。

何しようが自由なのに全く見えていなかった。

 

どこまでを一マスにするかで捉え方を変える。

枠のサイズを変えることで自由度が増す。

一つの視点に凝り固まると見えるものも見えなくなる。

枠が設定されても枠自体の見方は柔らかくしたいものです

 

 

 

国籍を選ぶ権利は子ども次第

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2021年6月29日 蛻変の記367号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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先日、夫婦別姓のことを書いたのでその続き。

我が家は日本人と中国人の夫婦のため別姓で過ごしています。

娘の姓は父親のものにしています。

 

なぜ父親の姓にしたかというと日本のパスポートが欲しかったから。

中国でも良かったのですが、ビザなしで行けるところが限られる。

中国が二重国籍を認めていないのも頭にあったからかもしれません。

 

娘が日本のパスポートを持って中国に行くようになってから知ったことがあります。

長期滞在する場合、ビザの申請は不要で過ごせるカードがあるということ。

パスポートは別の国でも中国人の親を持つ子が申請できるものらしい。

中国としては二重国籍を認めないため、親が別の国を選択することがある。

親が子の意見を汲むことなく決めるため、国籍放棄をする年齢制限までの制度。

 

娘が大人になり中国の国籍放棄するまでは

国籍を選ぶ権利を持っている。

あと10年と少しある中で何を選択するのか、

親としては楽しみ。

日本にいて日本で育つと日本以外の選択肢はなかなか取りづらい。

初めから選択肢に入っているのと

自分で選択肢をつくるのとは考えの幅に差が出るとおもうんですよね。

 

夫婦の姓にしても国籍にしても選ぶを大事にしたいものです