蛻変(ぜいへん)の記 ~変化を常態化する~

「チームビルディング」と出会い、自分のあり方と周りへの伝え方を変えることで、周り人が手伝ってくれるようになる。「チームビルディング」の考え方や日々の気付きについて発信しています。

夫婦同姓が合憲の国で夫婦別姓で暮らす

=============================
2021年6月26日 蛻変の記366号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
=============================

最高裁で夫婦同姓が合憲判断されました。

その判断についての意見を

SNSで目にすることも増えました。

 

私はニュースで見たときには何も思わなかったので、

自分の周りのSNS上で声が上がることに驚きました。

色んな人の思いを引き出す話題に関わらず、

私自身は賛成とも反対とも思わない傍観者でした。

 

この手のニュースだと頭の体操がてら考えることがあるのですが、今回は完全に無視してました。

なぜだろうと思ったら、我が家が夫婦別姓なんですよね。

制度の外にいるため自分に関係のない話として興味の外に置いていました。

 

私の配偶者は中国人。

国際結婚でもあり中国でも夫婦別姓でもあるため、別姓で過ごしています。

妻は日本人と結婚するため、姓が変わると思い喜んでいました。

結果は変わらなかったですが…。

 

今は事情が変わっていますが、

中国では夫婦別姓で子どもは親の姓となるのが一般的でした。

連れ合いのこと「外姓人」と呼ぶことがあるんですよね。

同じ家族なのに、明確な区別がある感覚が妻は嫌だったそうです。

妻の家庭環境による話ですけどね。

 

日本で暮らしていて別姓で不便に思うこともないんですよね。

娘の小学校の書類を便宜上、同姓にするくらいなもの。

姓よりも国籍の方に不便を感じることの方が多い。

中国人であることへの差別、偏見。

そちらと闘っている感じですね。

 

その悩みも新型コロナが流行り

人との直接の交流が減ったことで、

偏見に合うことも減ったように思います。

 

話がそれました。

今回の夫婦別姓の話は自分の関心外にあると

見聞きしてても頭を使わないことを実感する。

自分に興味がなくても「どうだろう?」頭を使う習慣は持っていたいものです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

機械が壊れたときこそ環境を変えるチャンス

=============================
2021年6月23日 蛻変の記365号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
=============================

 

一昨日から自宅のパソコンの調子が悪い。

重たいなと思ったのが一昨日で、

昨日はひたすらブルースクリーンを繰り返す。

 

ブルースクリーンが出始めの頃は最近見ることもなかったので懐かしいなぁ、くらいなものだった。

繰り返しでる青い画面に余裕もなくなる。

ひとまずハードディスクは完全に壊れる前に放置。

週末にでもこれからどうするかを考える。

 

パソコンの調子が悪くなってから

バックアップの環境を整えていなかったと反省。

スマホタブレットなどの機器をもっていても、

パソコンでのみ作業していた。

音声入力をスマホでしても、整理するのはパソコン。

 

環境になれすぎて、他の方法を考えてなかったんですよね。

パソコンの調子が悪い今は自分の習慣を作り替えるチャンス。

一つ壊れてもええように、自分の環境を整えていこうと思う。

まずは理想を描くところから始めてみる

 

 

事実を自分の見たいように意味づけする

=============================
2021年6月20日 蛻変の記364号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
=============================

見たもの、聞いたものに解釈を付けたくなる。
偶然そこにあるだけのものに自分の知っているものに当てはめて理解する。
私だけかもしれませんが、そういう癖がある。

今朝、雨の降る中、犬を散歩に連れ出す。
梅雨の時期になると道路にミミズが這うようになります。

一匹のミミズがこちらに向かってくるように這っていました。
その1メートル後ろに同じような姿勢で這っているミミズが一匹いる。
もう一匹いたら「ジェットストリームアタックやな」というくだらない妄想にひたっていると、
少し離れていたんですよね。
後を追うように這っているミミズが。

恥ずかしながら見つけたときには心が弾んでいました。
3匹までみつけると今度は4匹目はいないでほしいとアホなことを考えていたんですよね。
3だから自分にとってちょうどよく、4だと多い。
そんなことを思っていました。

振り返って考えるまでもなく、ミミズ自体は一匹一匹それぞれ行動しているだけ。
個体として動いているものを複数ととらえて意味をもたせているのは私側の視点。
単体だけを切り取れば何も意味づけしていない。
3体あることにより、自分の枠組みを起きていることに当てはめている。

普段も同じ。
身の回りに起きることを自分の解釈で見たいように聞きたいように選び取っている。
自分の解釈に感情を動かしているんですよね。
自分で自分の掛けている枠に気づくのは簡単ではないけれど、
自分はこう見ているということに気をつけていたいものです

自力では気づけないメールの文章力

=============================
2021年6月17日 蛻変の記363号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
=============================

仕事上のメールの文面が分かりにくい。

そんな人がいます。

「こういう意味ですか?」と聞くことはあっても、

分かりにくいですと直接指摘することはない。

 

自分にとって分かりにくいメールをもらうと、

文章力は身につける難しさを感じる。

相手が不満に思っていても、

自分の用件が済めばよい。

メールとしては機能しているんですよね。

 

メールで自分の伝えたいこと自分がわかりやすいように書く。

書いたものを読み直しても自分にとっては分かりやすい。

書き終えたとき自分では100点で送信ボタンを押すんですよね。

相手にとって30点の内容でも動いてもらえば目的は達している。

欲しい結果を得られるため、

「分かりにくいのか?」と自分の文面を振り返る機会がない。

 

文章は語学みたいにここまで出来たら何級とか何点という基準があるわけではない。

一人一人違う読み手が満足すれば、それで十分。

私にとっては分かりにくくても、別の人が読みやすいとなれば文章力はあることになる。

 

ある程度の人にわかりやすいと言ってもらうには

フィードバックをもらうなどして自分に複数の判断基準を持つ。

自分の文章に対する批判力を高めるのが良いと思う。

私自身、人の文章のことを言える立場ではない。

私の読みにくい文章をフィードバックをくれる人の存在を大切にしていたい

 

 

 

 

案内してないものは相手も動けない

=============================
2021年6月14日 蛻変の記362号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
=============================

仕事でメールのやり取りでイライラするのが、

聞いたことへの返事がないこと。

 

作業の状況と次の見通しを聞いても、

作業の状況だけが返ってくる。

見通しがわからないため、返信で確認する。

一往復で終わるはずが、二往復のやり取りになる。

 

倍の手数がかかっていることに

「一回で返してよ!」と心が狭い私は思いがちになる。

 

聞いたことが一回にまとまっていないメールを見ながら、今日もイライラしていた。

相手の文面を読み返しては「何でやねん」と一人毒づいてもいた。

 

相手への返信を考えながら、

自分の聞き方が悪かったと反省する。

相手に質問をしているものの、

答え方は自由にしてたんですよね。

 

相手に自由にできる範囲が広いため、

自分の求めるものがもれる。

答えても答えなくてもいいような形で相手に渡しているんですよね。

 

相手の行動範囲を狭めていないのに、

自由に行動していることを腹ただしく思っている。

自分の欲しい形を相手に渡していない自分の落ち度。

 

自分が欲しい答えがあるのなら、

その形に沿って相手に動いてもらう必要がある。

相手が動きやすいように案内してるからこそ、

相手も動いてくれる。

その手間を惜しんでいたにもかかわらず、

イライラしていた自分を恥じる。

 

人が動いてくれないのは、自分がバカだから。

人を責める前にまず自分を疑うようにしたいものです

 

 

 

親のこだわりが遊び心を制限する

=============================
2021年6月12日 蛻変の記361号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
=============================

今日、親戚から荷物が届く。

娘の誕生日が近いからと送られてきた。

箱を開けてみると茶碗、茶筅茶杓に薄茶用のお茶も入っていた。

自宅で茶道を教えている叔母からのプレゼント。

 

お店などで見たことはあっても、間近で茶道具を見るのは初めての娘は興奮気味。

普段触ることのない道具にあっという間に心を掴まれる。

 

親バカながら娘の良いところは

知ってるけどやったことがないものへのチャレンジ精神が旺盛。

やることが終わったらやりたい!とアピールしてくる。

 

薄茶を点てるのは親としても安心して取り組める。

茶碗とお湯に注意すれば、焦げるとか怪我をする心配もない。

自由にしていいよと言いやすいんですよね。

 

私自身かじった程度な上にこだわりがあるわけではない。

「こうすべき」とか「これしたらあかん」とかがないんですよね。

自由にやらせられて見本と違うことを体感させられる。

 

「こうしなさい!」ではなく

「どうしたら良い?」と素直に言える。

「何でそうなるかなぁ」と心の中で思うこともない。

 

そういうときは娘も心から楽しそうなんですよね。

娘の屈託のない笑顔を見るにつれ、

自分の普段のこだわりの強さを反省する。

弱いつもりで強いのが自我とはよく言ったものです。

 

 

言葉にできない自由と言葉にできる不自由

=============================
2021年6月10日 蛻変の記360号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
=============================

見たものや感じたものを言葉で表現する。

「何て言ったらいいのか」と

言葉で切り取る悩みにはまるときがある。

 

言葉にするのに悩んだかと思えば、

一つ見つかると今度はそれしか見えなくなる。

2本の棒を見たら箸に見えるみたいな感じ。

 

一つの見方が定まると、頭の中の混沌から解放される。

混沌を混沌として捉えられなくなる。

定点が一つできるだけで、カオスには戻れない。

 

言葉が見つからないと言っていたはずなのに、

言葉が見つかると、一面的な見方に不満をもつ。

我ながら面倒くさい人間である