蛻変(ぜいへん)の記 ~変化を常態化する~

「チームビルディング」と出会い、自分のあり方と周りへの伝え方を変えることで、周り人が手伝ってくれるようになる。「チームビルディング」の考え方や日々の気付きについて発信しています。

人を主語にしてものごとをみると他責になる

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2021年2月13日 蛻変の記306号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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今朝、目覚めてから洗面台に行くと、床一面に液体洗剤がこぼれていました。
「どうしてこうなった」と頭の中に「?」がいくつも浮かぶ。
自分が洗剤を倒した記憶もない。

「何でやろう」と思いつつ、ひとまずこぼれている洗剤を片付ける。
タオル三枚をつかってやっときれいになる。
床がきれいになったところで、洗剤がこぼれた原因の本体を調査する。

フタの締まり具合はゆるく斜めになっていた。
本体が倒れた拍子でそうなったのか、元々ゆるかったのかは区別はつかない。
両方かもしれないし、どちらかかなと考えていると、
愛犬から散歩に早く連れて行け!と催促される。

散歩をしながらも、洗剤がこぼれたことを頭の中で整理してました。
「洗剤がこぼれた」ことをテーマに問題発見・問題解決演習を脳内でする。
洗剤がこぼれていたという問題を歩きながら分解していく。

歩きながら、ぼーっと考え事をするのは、アイデアがいろいろ湧いてきて面白い。
洗剤がこぼれたことをテーマにして考えているのに、職場での問題解決の振り返りになったり、
先送りにしている問題のことが頭に浮かんだりと発散モードになるんですよね。
思考を発散させながら歩いていると、ふと自分のクセに気がつく。

考えごとしながら気づいた自分のクセは人を主語にして事象を捉えているというもの。
「洗剤の容器が倒れていた」と捉えればよいものを
「私が洗剤の容器を倒した」という言語を回している。
他のことで言えば「フタがしまっていなかった」とすればよいのに
「妻がフタを締めていなかった」とラベルをはっている。

自分や人を責めている言葉になっているんですよね。
一旦、吐き出してから主語をモノに変換している。
このステップがクセになっている。

自分や人を主語にしてものごとを捉えると、責めている感じになるんですよね。
私が、とかあなたが、とか問題が人依存になる。
環境全体をみることなく、人にだけ焦点を当ててものごとをみる。
これが子育てでイライラする原因の一つだなとも思う。

「娘がコップを倒して水をこぼした」とか、「娘が部屋を散らかしている」とか
水がこぼれている状態や散らかっている部屋の原因を子どもに当てているんですよね。
点で捉えれば、人が原因になる。
長い時間軸や空間として捉えると、その人自身が問題の引き金を引く前になんとかできるんですよね。

職場での問題解決時はできるだけ人を責めるようにと思っているのに、
家庭内のことは人を責めるような思考プロセスを回している。
そんなことを散歩しながら考えていました。
雲をみながら散歩すると、思いがけない気付きがあるものです。