事実を自分の見たいように意味づけする
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2021年6月20日 蛻変の記364号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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見たもの、聞いたものに解釈を付けたくなる。
偶然そこにあるだけのものに自分の知っているものに当てはめて理解する。
私だけかもしれませんが、そういう癖がある。
今朝、雨の降る中、犬を散歩に連れ出す。
梅雨の時期になると道路にミミズが這うようになります。
一匹のミミズがこちらに向かってくるように這っていました。
その1メートル後ろに同じような姿勢で這っているミミズが一匹いる。
もう一匹いたら「ジェットストリームアタックやな」というくだらない妄想にひたっていると、
少し離れていたんですよね。
後を追うように這っているミミズが。
恥ずかしながら見つけたときには心が弾んでいました。
3匹までみつけると今度は4匹目はいないでほしいとアホなことを考えていたんですよね。
3だから自分にとってちょうどよく、4だと多い。
そんなことを思っていました。
振り返って考えるまでもなく、ミミズ自体は一匹一匹それぞれ行動しているだけ。
個体として動いているものを複数ととらえて意味をもたせているのは私側の視点。
単体だけを切り取れば何も意味づけしていない。
3体あることにより、自分の枠組みを起きていることに当てはめている。
普段も同じ。
身の回りに起きることを自分の解釈で見たいように聞きたいように選び取っている。
自分の解釈に感情を動かしているんですよね。
自分で自分の掛けている枠に気づくのは簡単ではないけれど、
自分はこう見ているということに気をつけていたいものです