蛻変(ぜいへん)の記 ~変化を常態化する~

「チームビルディング」と出会い、自分のあり方と周りへの伝え方を変えることで、周り人が手伝ってくれるようになる。「チームビルディング」の考え方や日々の気付きについて発信しています。

どうせ時間を拘束されるなら主体的に過ごす

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2021年5月28日 蛻変の記352号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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今日は会社で必須の研修と自分がプライベートで申し込んだ研修の二講座受講する。

 

受けなさいと言われたものと受けたいと思ったものとでは自分の意欲が違う。

講座への熱量に差はあるけれど、かかる時間はどちらも同じ2時間。

 

あらゆることに興味を持ちながら聴くのも、

イヤイヤ聴くのも自分次第。

時間は変えられなくても、自分の気分は変えられる。

 

自分の命の時間から2時間分削って参加する。

面倒くさいと思っていると中身も入ってこない。

時間という資産を投資している以上、良いリターンを得たいもの。

変えられるのは自分次第。

「有意義な時間の使い方をする」ためには

自分のあり方を見直さないとですね

 

 

 

「思えば出る」今日の私の履歴書からの学び

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2021年5月27日 蛻変の記351号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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日経新聞で連載している「私の履歴書
今月は女優の吉行和子さんが担当されています。

今日のテーマは山田洋次監督とのエピソードが綴られている。
気になったポイントは2つあります。

「何度もおっしゃったのは『心でやってください』ということだ。
 セリフや表情など、表面だけの演技は見透かされた。」

「芝居ときちんと向き合っている人のやり方は、同じなのだと感じ入った。
 劇団民藝宇野重吉さんも「思えば出る」と言っていた。」

この2つが最近の自分の抱えているものを的確に捉えてくれる。
打ち合わせなどに出ていても、文字にすると良いことを言っているのに自分に全く響かない。
むしろ言葉が上滑りしていく感じがしてたんですよね。
鼓膜は震えているのに言葉だけがどこかにいく。
自分の記憶には何も残っていない。

人の話を聞いていてそうなるだけでない。
自分の言葉そのものも同じように軽いもののように感じる。
アウトプットのための言葉がまとまらなくなる。

自分の言葉に重みがないと思い、自分の目から誰かの役に立ちそうなことに囚われる。
ノートに書き出しても「なぜ自分が・・・」みたいな思考が出てきて、手が止まる。

今日の私の履歴書を読み、自分が自分の思いをないがしろにしていたなと感じる。
「ええこと書こう」の思考が膨らみ、大事な「何のために」を置き去りにしていた。
架空の誰かがええと思いそうだけど、自分にとっては思いの小さいものに囚われていたとも言える。
自分の思いや感じたことを自分が信じていけば、外に表れるはず。

チームに入れるのは自分がやり続けられるものを

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2021年5月24日 蛻変の記350号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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「前にも言うたやん」

プロジェクト管理のお仕事をしていると、

「これはどうしたらいいですか?」と聞かれることがあります。

個別具体的な場合であれば質問されるのは分かる。

チームのルールとしてこうしましょうと決めたものを聞かれるときは「おいおい」という気持ちになる。

特に全体の打ち合わせの場で認識して合わせをした後で聞かれると「ちゃんと聞いといてよ」と責める気持ちを抱くことも。

 

そう思うのは一瞬で、自分ごとになったから聞いてくれたと感謝の気持ちに切り替わる。

一度言って覚えてくれたらとは思います。

やりながら言われるのではなく、周知の場で言われても腹落ちはしないですよね。

やる場面になって「どうするんやっけ?」と思って聞いてくれるのはありがたい。

 

気になるのは質問せずに自分ルールで動く人。

これでええやろと自分で判断して行動する。

ルールがないところなら問題はない。

決まりがあるところだと、マネジメントする側としては無視できないんですよね。

 

守って動いてくれている人がいるのに自由を許してしまうと全体が緩んでくる。

Aさんは守ってるのに、Bさんは守らなくてよいとなるとチームでこうしましょうということに一貫性がなくなる。

例外を作らないためにルールを守ってもらうフォローには力を入れています。

 

決めたルールを守ってもらうこと以上に注力しているのはプロジェクトチーム内のルールはできるだけ少なくすること。

個人の判断を少なくするためにはルールを設ける方が楽ではある。

ルールを作りすぎると自分たちの動きをしばってしまうんですよね。

プロジェクトを進めるために決めたルールが自分たちの足かせになる。

 

ルールを管理する仕事が増える上に注意する側が守れないことも出てくる。

言ってるくせに自分ができないとメンバーからの信頼を失うことになりかねないんですよね。

そのためチームのルールは最低限にするのが良いと私は思っています。

 

チームの立ち上げ時期や新たな仕組みを入れようとするときにチームで取り組むルールは一つにした方が良いとも思っています。

チームの立ち上げ時はお互いがよく分かっていない。

そんなときにルールが多いと守ってる守ってないでギスギスしやすい。

共通の土台が作れなくなってしまう。

 

元からあるチームで新しい取り組みを入れるときにもやることは一つにした方が良い。

やることが多いとメンバーに「またか」感が出る。

さらに言い出しっぺができないと「やっぱりな」となり、諦め感が広がるんですよね。

 

新しい取り組みをするときは一つにする。

チームで取り組みやすくするだけでなく、リーダーの本気度が伝わりやすいんですよね。

やることが一つだとやっているかどうかがわかりやすい。

本気で取り組んでいる背中をみせやすい。

周りがついてきていない時も一人でやり続けるとそれだけでもメッセージになるんですよね。

自分の一歩が周りを変えるキッカケになると思います。

 

 

 

 

手段にはまると、目的を見失う

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2021年5月23日 蛻変の記349号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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今日は初めて「Scratch(スクラッチ)」に触れました。

Scratchは無料で利用できるプロラミング言語です。
ブロックをつなぎ合わせるだけで、コードを書くことなくプロラミングすることができるものです。

小学校でプロラミング教育が必修化されたこともあり、
家でもやらないとなぁとは思っていました。
プロラミングそのものでなく、プロラミングの思考は学んでほしいと思いつつ、
小学三年生になる娘が興味を持っていないのに無理やり教えるのも違う。

新聞やニュースで見かけては、「小学生でもこんなことできるんだねぇ、すごいねぇ」みたいな
独り言をしては、娘が引っかかってくるのを待つ。
新聞を見ながら独り言をつぶやいていたら、「やってみたい」と食いついてくる。
スイッチが入ったかどうかわからないので、「週末になったらねぇ」と泳がしていたんですよね。
昨日になり「週末だけどいつやるの?」と娘から聞かれたので、今日やってみることにしました。

ネットにも色々情報はあふれているScratch。
見ながら作業するのは本がやりやすい。
Scratchへのサインインだけ親がして、本とタブレットを渡して放置することにしました。

ブロックを配置するだけなので、直感的に操作ができる。
コードを書かないので、本は流し読みでも出来る。
質問を受けても自分の好きなようにやってみたら?と側でみるだけにする。

目的はどうやってプログラムが動くのかを感じてもらうこと。
動くプログラムをつくることが目的じゃないんですよね。
自分が何をどういじったから、プログラムがどうなるのか。
親の願いとしてはScratchにふれることで、プログラムについて考えるキッカケにしてほしいというもの。
Scratchをどんどん触って、いろんなものを作ってもらいたいという思いはあっても、
そこは重要ではない。

行動を積み重ねていくなかで、本来の目的が失われていくのはよくあることですよね。
例えば、会議の議事録。
本来は会議のプロセスを可視化し、次へのアクションを共有化し、
参加していない人にもそれをみれば、わかってもらえればいいくらいのもの。
それが、誰がどのように発言したかを事細かに記録する。
さらに時間をかけて精緻なものにしてから回覧を回して承認をもらう。
結果的に議事録作成のための時間が増える。

次のアクションに向けた共有認識のためで済むはずが、過去経緯を遡れるような資料に変わる。
本末転倒ですよね。
今回のScratchとの関わりも娘本人がプログラミングにはまって、
コード作成に夢中になっていくのは望外の喜び。
プログラムに触れるならコードも書けるようになれとすすめるのは目的がずれてくる。
手段にはまり込んでいくうちに本来の目的を見失わないようにしたいものです

チームでの行動を積み重ねると仕事の範囲も重なりだす

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2021年5月21日 蛻変の記348号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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仕事上、自分の領域の一歩外を踏み出してくれる人はありがたい。

自分の職務範囲を担ってくれるだけでも充分ではある。

チームで仕事をしていると、人と人との間にボールが落ちやすいんですよね。

 

自分の範囲かどうかが微妙で、自分が動くか迷う。

そのような状況だと、メンバーの反応でチームの状態がわかる。

 

チーム状態が良くないときは、それぞれの担当の殻にこもってしまう。

しかもそれぞれの円が重ならない。

担当の間にボールが落ちると、

誰かが指示しないかぎりボールは拾われない。

自分かもと思いながら拾うことが自分のリスクになるため、動くのをためらうんですよね。

 

良いチームだとメンバーそれぞれの守備範囲が広い。

それぞれ担当があるとしても、隣接する領域が少しづつ重なっている。

二人の間のボールが落ちたとしても、どちらかが拾ってくれる。

拾った方は恩着せがましくすることはない。

隣の人は拾ってくれたことに感謝を示し、次は自分が取ろうとする。

返報性の原理がはたらきやすいんですよね。

 

問題はそのような自分が拾うという関係性をどう作っていくか。

何かすればすぐできるみたいなお手軽レシピはないと思うんですよね。

私個人の考えですが、「自分たちはどういうチームか」という共通認識ができていることが第一歩だと思っています。

 

共通認識がある上でどんな行動を取るかが落とし込まれていることが大事かなと。

自分たちがどうありたいかを決めた上で、必ず取る行動を一つ決める。

例えば「助け合うチーム」とありたい姿を決めたとする。

そこで助け合うチームとはどんな行動をメンバーがとっているかを考える。

チーム全員が気軽にできることを一つ決める。

例えば必ず挨拶をするみたいに。

その行動を積み重ねて、取るべき行動を増やしていく。

その積み重ねが守備範囲を広げてくれるように思います

 

 

 

 

 

 

 

外の物差しで自分をはかる

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2021年5月20日 蛻変の記347号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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他人の存在があるからこそ、自分の強みがわかる。

自分一人だけでは分からないことでも、

誰かがいることで比較ができる。

 

自分の興味のある世界にだけ入り浸っていると、

そんな当たり前のことにも気づかなくなる。

それどころか、自分を低いとこに置くことも。

 

同じことをやっているところにいると、

目にするもの耳にするものが近い人に囲まれる。

周りが言うことと変わり映えしないため、自分の言うことには価値がないように思うんですよね。

 

苺が名産のところで自分も苺を育てるようなもの。

周りが育てる名人ばかりだと自分の無力さを感じるようなもの。

 

名人に負けじと高みを目指していく道はある。

私個人としては外の世界にでて他流試合をして回る方がよいと思う。

 

他流試合をすることで外の物差しを知れる。

外の物差しが入ることで自分の持っているものが相対化できる。

自分が自信を持っているものがそれほどでもなかったり、大したことないと思ったものが挑発がられたりする。

 

自分の今いるところで不安を感じることがあるときこそ、外に出るのはありかと思う。

 

 

 

 

言葉の選び方一つで第三者の印象は変わる

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2021年5月17日 蛻変の記346号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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同じ人でも言葉の使い方一つで印象が変わることがあります。
例えばこんな感じ
「几帳面なので言われた事はきっちりやる」
「融通がきかないので言われたことしかやらない」

因果関係がおかしいという声はあるかもしれません・・・
几帳面に焦点をあてるか、融通がきかないに目を向けるかによって
印象が変わってきます

几帳面と表現すれば正確性が要求される仕事が任せそうみたいなイメージがあるかもしれません。
融通がきかないとなると、決められたことをきっちり守ってやってくれそうな反面、、
決まっていないことには手を出さないイメージがあるように思います。
私の勝手なイメージかもしれませんけどね。

どのような言葉を使って表現するかは話す側次第。
人の印象を聞かれての返答の場合、聞いた側に自分のレッテルを貼って返すことになる。
長所と短所にどちらに光を当てるかだけ。

短所に光を当てると、話す側にそのつもりはなくても、悪口を言っているに等しくなる。
言葉は外に出たときから「あの人が言ってたよ」というのがセットになって一人歩きする。
どうせ口にするのなら、良いところに焦点をあてた表現にしたいものです。
口から出たものには送信取り消し機能や削除機能はないのだから。