蛻変(ぜいへん)の記 ~変化を常態化する~

「チームビルディング」と出会い、自分のあり方と周りへの伝え方を変えることで、周り人が手伝ってくれるようになる。「チームビルディング」の考え方や日々の気付きについて発信しています。

相手を主語にしたメッセージは摩擦を生みやすい

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2021年2月20日 蛻変の記311号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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「カッコいい、ワンちゃんですね」

近所のホームセンターへワンちゃん用品を買い出しに行く。
そこはワンちゃんを連れて店内に入れる。
散歩がてら、ワンコをつれて買い物に。
ペット用のカートに乗せて、商品を見て回る。

同じ様にワンちゃん連れの方がいるので、ちょっとしたコミュニケーションが生まれる。
赤ちゃんをベビーカーに乗せて買い物していると、
周りの大人が微笑んでくれるのと似ているかもしれない。

知らない人であっても立ち話をすることもあるんですよね。
今日もカートで進行方向に顔を向けて大人しく座っているうちのワンコに向けて、
話しかけてくれる方がいました。
「じっと座って、カッコいいですね」とお褒めの言葉を掛けてもらう。
社交辞令のやり取りなのですが、「カッコいい」を常につけてくれる。

ありがたいなぁと思いつつも、うちのワンコはメスなんですよね。
オスに向けてかける言葉をいただくので、訂正するのも悪いと流していたところ、
娘が「この子は女の子なんだよ」とさり気なくアピールする。
すると、先方が「ごめんなさいね」と申し訳無さそうになる。

「まぁ、そうなるわな」と私は心の中で思っていた。
男の子やと思って話しかけてたら、女の子でしたとなると気まずくなる。
ワンコのことなので何とも思わなかったのだが、
これが自分の娘が赤ちゃんのころだとイラッと来ただろうなと思う。

ワンちゃんはよくて自分の娘はダメというのも自分の中で一貫性が取れていないとは感じる。
犬と人の違いはあれ、性別にあった言葉がけへの反応が違うという点でぶれている。
そもそも女の子と分かるようにしているわけでもなく、
相手が自分の思ったことを言ってくれているだけ。
いちいち反応しなくてもいい。

自分の中で引っかかるものがあるのは、
自分の娘には可愛いといってもらいたいという価値観があるからなんですよね。
娘なんだからそれにあった表現を心の中で求めている。
最近何かと話題になっている年配の男性方とあまり変わらないのかもしれない。

この手のコミュニケーションでは、主語が自分ではないために摩擦が起こりやすい。
「あなたのワンちゃんはカッコいい」とか「あなたの娘はかわいい」とか
主語が言われる側になっている。
男性にはいわゆる男性らしい表現を、女性には女性らしい表現を好む人もいれば、
性別に根ざした表現を避けてほしい人もいる。
自分にできる配慮としては、自分を主語にして伝えることなんだろうなと思います。

自分を主語にして相手を称えるのが摩擦が起きにくいのではないだろうか。
赤ちゃんを見てだと「思わず笑顔になりますね」とか「見てるだけで癒やされますね」とか
相手の存在で自分がどうなったかを伝える方が良いのかなと私は思います。
例が陳腐なのは横に置いといて、自分を主語にした表現ができるようにしておきたいものです。

見えない鎖につながれるとカンタンに思考を放棄する

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2021年2月19日 蛻変の記310号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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「すぐに答えが浮かばないです。すいません。」

今日、会社の後輩と1on1をしました。
同じチームに居るけど、仕事上の接点はまったくない後輩と話す。
私が話を聞く側で、後輩に好きなように話してもらう。
話してくれる内容に沿って「どう進めていく?」とか
「何が必要かな?」とか問いかける。

ときには向こうから「どうしたらいいでしょう?」と聞かれているのに
答えずに「どうしたらいいと思う?」と質問返しをすることも。
こういうときにスッと答えてほしいと相手は思っているかもしれない。
どうしましょう?と人に問いかけるときは、自分の中で答えを持っている気がするんですよね。
自分の意見はある。
けれど、「違うよ」と言われるのが怖いから言わないんですよね。

相手に安心して答えてもらうためには、まず自分が黙る。
これが私にとっては苦行なんですよね。
人は聞かれたら答えるというのが習性なのか、私に質問されると答えたくなるんですよね。
後輩相手だと、あれもこれも教えたくなり、話が止まらなくなる。
それだと1on1が自分の時間になる。
話したい欲求を抑えて、話を聞いたり、問いかけたりすることに集中する。

私の問いかけにいろいろと答えてくれるのですが、
話が進むにつれて相手から「すぐに答えが浮かばないです。すいません。」というのが
3回に1回くらいでてくる。

これまで別の人と1on1をやっているときに答えを出すことを求められていたらしい。
すぐに言葉が出てこないときに、何回も「すみません」と言われるのはこちらとしても心苦しい。
聞いていてこちらがつらくなってくる。
そもそも1on1は後輩が何か得てもらう時間。
答えは出なくても良いし、謝らなくても良いはずなんですよね。

気になったので、踏み込んで聞いてみると、
「聞かれたことに答えろ、黙るな」ということを一緒に仕事をしている人から求められているらしい。
安易に答えを出すと、「違う」といわれる
答えを出さないと、お小言が始まる。
そんな環境にいるため、自然と誤りグセがついていた。

鎖につながれた象と同じ状態。
深く考える必要が出ると、先にギブアップの声を出す。
何か言っても否定されるなら、何も言わない方がいいと自分を守っているんですよね。
元々は違ったはずなのに、安心できない状態が続くうちに思考をすぐに止めるようになる。
安心できなかったり、自分が安全と感じなかったりすると自分の殻に閉じこもってしまう。

職場の心理的安全性は人の能力に大きく影響する。
思考にブレーキがかかると仕事の能率もさがる。
すぐに思考を止める人との対話を通して、
チーム全員がのびのびと働ける場作りに力を入れたいという気持ちになる。
人の顔色を気にしておどおど仕事することほどアホらしいものはない

人に何かを言いたくなったら、「自分はどうなん?」と問いかける

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2021年2月17日 蛻変の記309号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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このところ自分の声や話し方が気になっている。
相手にとって聞きやすい声で、分かりやすく伝えられているか。
そのことばかり意識がいっている。

というのも私の周りに気になる存在がいるから。
声が小さかったり、私にとって分かりにくい話し方をされる。
もう少しハッキリ話して!とお願いしても、すぐに小さくなる。
こういう順番で話して!と言っても自分のスタイルを変えない。

他人を変えることはできないと私は思っている。
その方が変わらないことについては何も思っていない。
私が引っかかるのは「自分はどうなんだろう?」というブーメランが常に自分に刺さる。
私がその人に指摘をするたびに、自分のことは自分では気づけないと思い知るんですよね。

「声が小さい」と私が伝えると同時に、自分の中で「自分の声は聞き取りやすいのか?」というアンテナが立つ。
「この順番で話してくれると分かりやすい」と言えば「自分の話し順は相手にとって分かりやすいのか?」という問いが立つ。
自分の中でアンテナや問いが立つから、自分の行動を振り返ったり、次こうして行こうって改善したり出来る。

私が話したり人の話を聞いたりするときに、引っかかるものがなければ自分の中で気づくことはない。
自分の話し方がどんなに下手でも、周りが温かく受け止めてくれたら、話し下手と思うことはない。
自分がわかりやすいように周りが話してくれているだけなのに、周りが話し上手とも思わない。
自分にとって気づきが起こるのは、私が引っかかるものを提供してくれる人がいるから。
その人を通して、「自分の声や話し方を気にしたほうがええで」と教えてくれる。
その人がいてくれるからこそ、自分の学びが深まるありがたい存在です。

失ったものにあくせくするより、今できることにフォーカスする

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2021年2月16日 蛻変の記308号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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「水曜日、授業発表会があるんだけど見に来てくれるんだよね」

昨日、学校から帰ってきた娘からの問いかけられる。
全く予定していなかったため、焦る妻と私。
小学校からの中止連絡が来ていたので予定そのものがなくなったと思い込んでいた。
そのため、全く行く気がなかった。

「中止じゃなかったの?」と聞き返すと今日もらったプリントにも書いてあると娘に指摘される。
改めて小学校からの連絡を見直すと、別の行事だった。
夫婦揃って思い込みと見落とし。

娘にお詫びをし、夫婦で水曜の午後の予定を確認し、妻が休みをとって行くことに。
今度こそ、見落としがあってはいけないとプリントを見直す。
そこには「事前に配布したピンク色の健康観察カードを記入の上、受付に提出してください」との記載があった。

「だいぶ前に捨てたな」
別の行事の中止連絡のときにもらっていたため、「要らんやろ」と捨てていた。
発表会への参加に必要な紙がないと知った娘は「どうして大事な紙を捨てるの!」と抗議していた。

捨てたものは仕方がない。
無いならもらえばいいと娘の連絡帳に「健康観察カードください」と記入し小学校に再配布を依頼する。
「先生がくれなかったらどうするの?」という娘に、
「その時はその時で考える。何とかなるし、何とかするよ~」と娘を説得。

どうなるかなと不安でしたが、結局、娘がプリントをもらってきたので、問題なく行けるようになりました。
今回はちょっとしたトラブルはあったものの、家族間でもめることなく対応できた。
これまでなら紙をなくした時点で、娘の不満に夫婦揃って怒り爆発させたり、
紙を渡すのが早すぎなど学校のせいにしたりと他者を責めるような考え方をしていました

それが今回は自分たちのできることに焦点を当てて、進められた。
娘にプリントをもらうのを依頼するだけで済んだ。
もしもらえなかったとしてもママ友にコピーさせてもらうとか、
当日、学校に行って交渉するとか別のプランも考えていたんですよね。

なくしたものは戻せない。それならばどうするか。
だめでもともと、ダメなら他の方法考えるというのができていたかなと思います
行動の目標がはっきりしていると手段が1つダメでも別の手を考えるものです。
今回のような小さなことでも、行動に移す前から諦めるのではなく、
自分が考えられる手段を実行に移すようにしておくというのは大事な習慣かなと思います。

「どうせ・・・」という自分のブレーキを外す

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2021年2月14日 蛻変の記307号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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今日は小学校の地区役員の引き継ぎの打ち合わせ。
新旧の役員を合わせて12人いて、男性は私一人でした。

一人ぐらい私以外の男性がいるかなと期待していましたが、
うちの地域では女性がやるものというのが暗黙の前提になっているような気がする。
来月、他の地区も合わせた全体の引き継ぎ会があるので、
そこにPTA会長と私以外に男性がいるのかを探すのを楽しみにしています。

今日の打ち合わせで雑談をしているときに、こんな会話をしていました。

Aさん「パパがやってくれていいですね?」
私  「お願いしたらやってくれるんじゃないですか?」
Aさん「やらないですよ、うちは」
私  「言ってみないとわからないのでは?」
Aさん「グダグダ言ってやらないので、言う前から諦めてます」

小学校の地区役員に性別指定はなく、女性が担当するという決まりはない。
女性がやっても男性がやっても良いんですよね。
今日交わした会話で言えば、「自分の夫にやってよ」とお願いするのをはじめから放棄していましたね。

と、偉そうにいっていますが私も進んでやったわけではないんですよね。
うちの地区の保護者のLINEグループがあります。
そこも女性しか入っていない・・・
地区役員は立候補制ですが、手が上がらないので、あみだくじで決める。
くじで当たったので我が家が今年度担当になりました。

元々は妻がやるはずだったんですよね。
うちの妻は中国出身で日本の小学校に通ったことはない。
日本人のママさんグループの中で仕切るというのもやれないことない。
知り合いもいるけど、不安があるという状態でした。
妻の中で不安が高まり、くじが当たったその日に「代わりにやってくれる?」と打診されたんですよね。

妻から相談されても、「どうしようかな」という感じで、
「やります!」とはならなかった。
私が悩んでいると、妻からのプレゼンを受ける。
「日本の小学校に通ったことはなし、PTAなんてものは知らない。
 よくわからん上に、日本人のママさんばっかりのところリードしないといけない。
 専業主婦もいるし、働いている人もいる。
 職場ですら色々あるのに、いろんな立場の人が集まるところは・・・
 あなたはマネジメントの仕事してるんやったら、手伝ってくれてもいいんじゃないの?」

覚えている限りでこんな感じ。
ここまで言われたなら、やりますよという感じで引き受けたんですよね。
私から「しんどいと思うから、代わりにやるよ」とすすんで言ったわけではなく、
妻の主張があってから、自分で動き出しているんですよね。

妻から言われなかったら私はやっていなかった。
まずはお願いしてみるという行動を起こさないと、変わらない。
「どうせ・・・」と自分で結果を想像して動きを止めると何も変わらない。
ダメでもともと、うまく言ったらまるもうけ、ぐらいの気持ちが良いのかなと思います。

人を主語にしてものごとをみると他責になる

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2021年2月13日 蛻変の記306号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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今朝、目覚めてから洗面台に行くと、床一面に液体洗剤がこぼれていました。
「どうしてこうなった」と頭の中に「?」がいくつも浮かぶ。
自分が洗剤を倒した記憶もない。

「何でやろう」と思いつつ、ひとまずこぼれている洗剤を片付ける。
タオル三枚をつかってやっときれいになる。
床がきれいになったところで、洗剤がこぼれた原因の本体を調査する。

フタの締まり具合はゆるく斜めになっていた。
本体が倒れた拍子でそうなったのか、元々ゆるかったのかは区別はつかない。
両方かもしれないし、どちらかかなと考えていると、
愛犬から散歩に早く連れて行け!と催促される。

散歩をしながらも、洗剤がこぼれたことを頭の中で整理してました。
「洗剤がこぼれた」ことをテーマに問題発見・問題解決演習を脳内でする。
洗剤がこぼれていたという問題を歩きながら分解していく。

歩きながら、ぼーっと考え事をするのは、アイデアがいろいろ湧いてきて面白い。
洗剤がこぼれたことをテーマにして考えているのに、職場での問題解決の振り返りになったり、
先送りにしている問題のことが頭に浮かんだりと発散モードになるんですよね。
思考を発散させながら歩いていると、ふと自分のクセに気がつく。

考えごとしながら気づいた自分のクセは人を主語にして事象を捉えているというもの。
「洗剤の容器が倒れていた」と捉えればよいものを
「私が洗剤の容器を倒した」という言語を回している。
他のことで言えば「フタがしまっていなかった」とすればよいのに
「妻がフタを締めていなかった」とラベルをはっている。

自分や人を責めている言葉になっているんですよね。
一旦、吐き出してから主語をモノに変換している。
このステップがクセになっている。

自分や人を主語にしてものごとを捉えると、責めている感じになるんですよね。
私が、とかあなたが、とか問題が人依存になる。
環境全体をみることなく、人にだけ焦点を当ててものごとをみる。
これが子育てでイライラする原因の一つだなとも思う。

「娘がコップを倒して水をこぼした」とか、「娘が部屋を散らかしている」とか
水がこぼれている状態や散らかっている部屋の原因を子どもに当てているんですよね。
点で捉えれば、人が原因になる。
長い時間軸や空間として捉えると、その人自身が問題の引き金を引く前になんとかできるんですよね。

職場での問題解決時はできるだけ人を責めるようにと思っているのに、
家庭内のことは人を責めるような思考プロセスを回している。
そんなことを散歩しながら考えていました。
雲をみながら散歩すると、思いがけない気付きがあるものです。

他人の物語から自分の子育てと育てられ方を振り返る

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2021年2月12日 蛻変の記305号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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今日は参加している育児(自)コミュニティのイベントに参加してきました。
パパさんやママさんだけでなく、独身の方が集まり、フリートークする会。
それぞれのお子さんの年齢もバラバラなので、自分が普段接するのとは違う場面や価値観にふれる。

他の人の育児の話を聞いているとき、、自分の中での空想を3つの視点でやっています。
「親としての自分」、「過去の自分」、「過去の親」の3つ。

「親としての自分」は他の人のエピソードを聞いて、自分の子育てはどうしているのかを考えるというものです。
同じ場面で自分の子どもに対してどう接していたか、どう接するかをイメージする。
他の家の教育方法と自分のところの教育方法との照らし合わせですね。
それぞれの家の違いを感じたり楽しんだりというもの。

「過去の自分」の視点は、年齢が高めのお子さんのお話のとき、自分がその年齢のときどうしていたかを思いにふけるというもの。
自分はどうしていたかという行動を思い返すだけでなく、
どんな思いを感じていたのかという感情面も合わせて、自分の記憶をたどる。
だんだん遠い記憶になっているけれど、良い脳トレ
何かエピソードがないと振り返ることもないので、自分の原点を考える機会になる。

最後に「過去の親」の視点。
自分がエピソードにでてきた年齢だったとき、親はどのように捉えていたのだろうかと考える。
記憶の中の自分に対する親の接し方を振り返る。
親の目にはこんなふうにうつっていたのかなとか、こんな気分だったんだろうなという妄想をする。
過去の親の気持ちを追体験するという感じでしょうか。
あくまで想像しかないけれど、親の苦労がわかるような気がする。
過去の親のセリフを今の自分が使っていると感じる時もあり、自己嫌悪になることもありますが、
子どもとしての自分に親が向き合ってくれたことを感じる瞬間でもあります。

他の人の育児トークを聞いているとき、自分の中でこの3つの視点を切り替えています。
一番多いのは、過去の親との対話かもしれない。
本当はこんな風にしたかったんだろうなぁとか、
こういうことを伝えたかったはずなのに、違う表現になっていたんだろうなぁとか。
親も親で試行錯誤してたのかなと思うときがあります。
孫である私の娘には、自分に言っていたことと真逆のことを言っているのを見て、私自身不快になることがありました。
それも親としての経験を積み重ねた結果なんだろうなと今では思います。
自分も娘に同じことを言われるんだろうなぁ・・・