蛻変(ぜいへん)の記 ~変化を常態化する~

「チームビルディング」と出会い、自分のあり方と周りへの伝え方を変えることで、周り人が手伝ってくれるようになる。「チームビルディング」の考え方や日々の気付きについて発信しています。

当たり前の日常に不審者が入り込む

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2021年6月7日 蛻変の記359号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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小学生に知らないおっさんがつきまとう。
ニュースで見聞きすることはあったも、私にとっては他人事でした。
そんな出来事に今日、自分の娘が遭遇する。

娘が一人で下校しているところに南アジア系の風貌の男性に声を掛けられる。
無視しながら歩いても構わず声を掛け続け、家の前までついてこられたそう。

ついてきたキッカケが娘が「こんにちは」と挨拶したことらしい。
顔見知りの近所の人には挨拶しなさいと教えていたものの、
まさか会う人全てにやっていたとは。

とりあえず娘には何事もなくて一安心。
警察に通報し、情報を提供する。
今回の件で怖い思いをした娘がつきまとってきた人の姿を
しっかりと覚えていたことに驚く。
警察の質問にすべて答えられていたんですよね。
記憶違いの可能性はあるものの、聞かれたことに答えられたことを素直に褒めたい。
それだけ覚えていることが心の傷になっていないことを親としては願うのみです。

小学校にも情報連携して今日の対応はおしまい。
つくづく子どもにどう伝えるかは悩ましい。
人を見たら泥棒と思えみたいなことは言いたくはない。
どこまでが危険かの線引も難しいところ。
これからの対応をどうするかはこれから考える。

何事もなく「お帰りなさい」と迎えられることは貴重だと思い知らさせる。
当たり前の喜びをかみしめる日となりました。

家の中は外で言っていることを試す修業の場

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2021年6月6日 蛻変の記358号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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あるがままに見る。

娘の答案を見ていると、難しいことがよく分かる。
「すべて」を読み飛ばしていたり、
「正しくないもの」を「正しいもの」でとらえていたりする。
「はい」か「いいえ」で答えればよいものも、違う答えを返すこともある。

自分の読みたいように読み、答えたいように答えているんですよね。
うちの娘だけかもしれないし、小学生だからかもしれない。
自分や自分の職場の人を見ると一概には言い切れない。

私自身、「何が事実かを見るようにしましょう」と言いながら出来ていないんですよね。
娘の答案の例で言えば、バツがついたところに感情が動いてしまう。
正しい答えではなかったことに意味づけしている。

「1+1=3」となっていたら、そのまま受けとめれば良い。
そこに足し算もできないとか、こんな問題ぐらい解いてよとか自分の思い、価値観を足し込む。
相手に頼まれてもいないのに。
足しこんだもので感情を動かし、勝手にイライラしてるんですよね。

チームビルディングについて語る機会があり、
「事実を見ましょう」といっているのに家庭ではこのザマです。
一貫性が取れていない自分にさらに苛立っているのかもしれませんね。
娘は身を持って私に「事実を見れていませんよ」と教えてくれる。

外で言っていることが家庭の中でできていない情けない父親だけれど、
付き合ってくれる娘に感謝。

親としての教科書を増やすためのインプット

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2021年6月5日 蛻変の記357号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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子育ての悩みは減らないとこのところ感じています。
生まれたばかりのころが一番悩みが少なかったですね。

大きくなるにつれ、一人の人間として接することができると思っていました。
成長に伴い、子の短所がより大きく見えるような気がしています。
その短所が自分に似ているとなおさらハッキリ見えるんですよね。
子どもに自分の欠点を突きつけられているような気がします。

行動範囲も広がり、自分と似たようなことをすることも多くなります。
自分の奥底に封じていた親に説教された苦い記憶を呼び起こされるんですよね。
記憶とともに感情が引き出されるため、過剰に反応してしまう。
過去の記憶に紐付いた感情に「反応しない」というのが今一番の課題です。

子に過剰に反応してしまうというのは課題を抱えていることもあり、
子との向き合い方は常に模索しています。
自分の引き出しに入っている親の経験というのは自分が両親から受けた記憶しかない。

親としての振る舞いではっきりとイメージできるのが私の場合、父と母の2パターンしかない。
自分の親としてのあり方が定まっていない。
娘が小さかったときはあまり「親として」ということを意識することはなかった。
在宅勤務になり学童にもいかなくなったため、親と子の距離が近くなってきた。

自分の中での親のあり方のイメージをふくらませるために読んでいるのが
プレジデントファミリー」という雑誌です。
親としての自分の接し方で娘の可能性の目を摘んでいるかもしれない。
その不安を雑誌を読むことを通して軽減できる。
東大生の親が子にとってどのような存在だったかというToBeが知れる一冊。
親はどのようにしていたから子は自分の興味に邁進できたということが伺いしれるんですよね
同じ場面で自分がどうあるかを想像しやすい。

この手の雑誌を読んだからといってすぐに行動が変わるわけではない。
定期的にインプットして自分のイメージ像を固めていき、
日々の行動といったアウトプットに反映していく。
娘に「パパは穏やかになったね」と言われる日を目指して。

場を共有している人の紹介で自分の興味の幅を広げる

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2021年6月3日 蛻変の記356号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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在宅勤務になり、大型書店で過ごす時間が短くなる。

Amazonや近所の小さな書店で取り置きを依頼して本を買っています。

 

欲しい本、気になった本の指名買いになる。

書店で棚めぐりをするみたいに予期せぬ出会いはないんですよね。

自分の興味の範囲を超えることがない。

 

Amazonのオススメも購入履歴、検索履歴からのため、テーマが被ってくる。

自分の興味の深掘りをするには良い。

深くはなるが広がらない。

 

ネットの世界でも自分が取りに行く情報は自分の興味・関心があるものなんですよね。

好奇心旺盛で雑多な情報を拾うわけでもないので、自分の知りたいことだけに閉じていく。

 

そのような自分を取り巻く世界が狭くなる中で、興味の幅を広げてくれるのはオンラインサロンで知り合った方々。

こんな本買いましたとか、読みましたみたいに投稿されたものを見るだけでも刺激を受ける。

書店めぐりをしてても気づかないような本を見かけることもある。

 

住んでる地域も職業、経歴もバラバラな人が参加しているオンラインサロン。

それなのに届けられる情報に心動かされる。

価値観の一部を共通しているからかもしれない。

 

本屋で見かけても手に取ることはないタイトルの本も見てみようと思える。

人と接することが少なくなってるからこそ、

人からの情報の信頼性が高まっているのかもしれない。

私自身は情報を受け取るばかりだけれど、

「おっ!」と思ってもらえるようなものを

提供できる人間になりたいものです

 

 

 

 

 

「難しい」「そうですね」だと一歩も進んでないよね

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2021年6月2日 蛻変の記355号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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「社内への導入は難しそうです」
「システム面からも難しそうだね~」

社外セミナーで受講した内容を社内のミーティングで共有する。
そんな場に今日は出席しました。

報告者が話す内容に司会が適宜、質問を入れるみたいな形で進む。
出席者には発言権がないため、ただ話を聞くだけの時間。

セミナーで聞いてきた事例を社内に入れた場合として
報告者のコメントが入る。
「個人によりすぎているので難しい」、「業界が違うので難しい」など
どれも難しいで終わる。
その話を受ける司会も「難しいかもね」で返す。

「こんな話聞いてきました」からの「難しい」で話が終わる。
聞いている側からすると、状況が一つも変わってないんですよね。
成功事例が社外にはあるらしい以外何も残っていない。

事例に近いことを社内でやろうとする動きを止める、という意図があるなら良いプレゼンかもしれない。
社内で同じようなことをやっているため、話を聞きに行ったはず。
難しいアピールをされても、「だから、何やねん」と思ってしまうんですよね。

どの例も難しいばっかやなぁと思って聞いていると、
「難しい」という言葉は使い勝手がいいと思えてくる。
誰もツッコまなかったとのはあるけれど、
「〇〇の点で難しい」と報告すると、聞き手が勝手に難しい理由を補強するんですよね。
同じチームなどで話の前提が揃っている場合、ダメなところもイメージも共有しやすい。

難しいと匂わすだと、相手が話を潰してくれるので、案件を止めたい場合は楽ですよね。
前向きに進めようとしている人には、次へのステップが見えない。
当事者となると時間をとっていることへの対価がないと「う~ん」となるように思います。
自分が話し手の場合は思考停止ワードを使わないようにする。
聞き手の場合はもっともらしいワードがでたら、
「だから、何」とツッコむ癖を付けておきたいものです

 

 

習慣化には姿勢にこだわらず足を出し続ける

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2021年6月1日 蛻変の記354号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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今日から6月がスタート。

去年を振り返ってみると、小学生の娘の2020年度初登校日でした。
当時は学校に行かせるかどうか迷っていたのを覚えています。
まさか一年経っても同じような状況にあるとは思いもよりませんでした。

新型コロナをめぐる状況はともかくとして、自分の状況はどうなのか。
一年経って変わったものといえば、このブログがなんとか続いているくらい。
毎日更新できていないので、自慢するほどではないかもしれません。
飽きっぽく目新しいものに飛びつきがちな自分が間を開けながらも続けている。
自分をうまく動かせられるようになったのが一年の変化だと思っています。

休みながらも続けられた理由としては、目的が明確になったということ。
基本は在宅勤務となり、人とのコミュニケーションが減ったんですよね。
それに伴い、自分のアウトプットする機会も減っていく。
アウトプットの量が減ると、インプットを整理する力が落ちる。

インプットしたものを咀嚼する場として活用するというのが自分の中ではっきりしました。
自分で作った場なので、あれもこれもという考えがあったのが、整理されたとも言えます。
毎日更新できればいいけれど、続けることを主目的ではないと踏ん切りがついだんですよね。
その結果、休む日があっても自分を貶めることがなくなる。

「今日書けなかった」という思いは自分にダメ出しをしていことになり、
自分で自分に呪いをかけているんですよね。
足を止める自分にダメを出すのではなく、一歩出した自分を認める。

足を止めていたら0のままですが、一歩出せば一歩進む。
歩く姿勢などは二の次。
まずは足を出し続ける。
そうして着実に歩を進めていく。
その先の来年は歩く姿勢にこだわっていたい欲をもっていたいものです

時間の使い方から習慣を見直す

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2021年5月30日 蛻変の記353号
今日も自分の中に起こった「?」や「!」を書いていきます。
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身についた習慣は自分の認知能力を使うことなく、自分の体を動かしてくれる。
朝、目覚めたら自然と洗面台に向かい、歯を磨く。
これをしたら、次はこれして・・・みたいに頭を使うことはないんですよね。

自分を自動運転してくれる。
習慣の強みの一つだと思います。
自動的に動くため、今の自分に対しての足かせになることもある。

頭や体がしんどくても、これをやってから!と自分を動かす。
運動やストレッチなど体を動かすものであればよいが、
脳を使役するものは精度が落ちる。
私だけかもしれませんが、疲労を抱えて動かしても良いものは出ない気がするんですよね。

なぜ、こんなことを書いているかというと、
私自身、一日の過ごし方の見直しに迫られています。

これまで朝起きてから寝るまでの時間をスケジュールして、
何をする時間かをまとめて過ごしていました。
そのリズムと自分の体のリズムが合わなくなってきたんですよね。

日の出の時間が早まるとともに、家のワンコの起床時間も早まる。
それに伴って自分の起きる時間も早まっていく。
冬のときより1時間早まっている一人サマータイムです。

起きる時間が早まったものの、生活リズムを変えずにいました。
このところ夕飯を食べたあとに強烈な睡魔に襲われる。
そのまま寝落ちすることはないものの、夜9時は完全に頭が働いていない。

夜9時台はこれまでアウトプットの時間に当てていました。
頭が働かないので、手が止まる。
日中にメモ書きしているのでつなげるだけなのですが、
まとめきれずにグダグダしてしまう。
別の時間にやればいいのだが、時間による習慣が働き、いつもの時間まで放置してしまう。

ドラッカーの「成果すなわち仕事のアウトプットを中心に考えなければならない」という言葉からすると、
成果をあげられていないんですよね。
アウトプットするための時間を確保できていないので。

ドラッカーの次の言葉を思い返し、自分の時間の使い方を見直す。
「成果を上げるものは、仕事からスタートしない。時間からスタートする。
 計画からもスタートしない。何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。
 次に、時間を管理すべく、時間を奪おうとする非生産的な要求を退ける。
 そして最後に得られた自由な時間を大きくまとめる」

自分の中でどの時間の使い方が緩いかというと、ワンコの散歩の時間。
歩きながら思いついたことをメモすることはあっても、
アウトプットする時間として使い切れていない。

ここのまとまった時間の使い方を変えれば、アウトプット量は変わる。
夜9時以降頭がまったく働かなくなったのは
時間という最大の資源の分配方法を見直す良い機会となりました。